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写真が伝える災害の記憶 ~昭和36年豪雨~

公開日 2020年12月10日

最終更新日 2020年12月9日

いにしえより川は豊かな恵みをもたらす一方、多くの災害ももたらしてきました。
千歳町も平成2年、平成5年と大きな水害に見舞われましたが、それ以前については昭和49年(1974年)刊行の千歳村誌に記録を残すのみでした。
今秋に完了した千歳支所の改築工事で書庫を整理した際、多くの書類の間にうずもれるようにして保管されていた一冊の写真帳が姿をあらわしました。
「昭和三十六年拾月弐十六日 水害当時写真 大野郡千歳村」と記された写真帳には水害の様子を克明に記録した数々の写真が納められていました。
今回の千歳支所だよりは、その写真と村誌に記された記録とで、かつて我が町を襲った水害の様子をたどりたいと思います。

10年ごとの大豪雨(千歳村誌より)

戦争によって荒廃した国土は天災にもろかった。昭和になって10年ごとに大豪雨が村を襲った。昭和18年、28年、36年である。(中略)
次に襲ったのが昭和36年10月26日の集中豪雨であった。この時は秋の水稲の収穫が始まっていた。
新殿(にいどの)、漆生(うるしお)、横尾(よこお)、長峰(ながみね)などの茜川(あかねがわ)添いの水田には稲刈りをして圃場いっぱい広げられて干してある稲、束ねてある稲など無数であった。

千歳中学校うらからの氾濫の様子
前日から降り始めた雨は26日の午前10時ごろになると、すさまじい豪雨となった。空一面をおおった雨雲から降る雨は、ホースを全開にして叩きつけるような勢いになった。茜川はみるみるうちに氾濫を始め、昭和28年と同様に中学校うらから水田に流れ込み始めた。
千歳中学校下流の水田の氾濫の様子

刈り取られ、ひろげられ、干されてあった稲はどうする間もなく流されていった。

冠水した水田から稲を集める人
それでも、水びたしの稲をすこしでも収穫しようと、泥海の中からわずかばかり集めていた人々はいた。
冠水した長峰の水田から稲を集める人たち
冠水した長峰の水田から稲を集める人たち
しかし、一段、高所に置いた稲束も正午ごろになると押し流される始末であった。
冠水した平尾社のお仮場の鳥居

夕刻4時頃まで雨は収まらず、茜川の氾濫も続いた。

冠水した一丁田の水田

小学校は午前中早めに終わり職員が全児童に付き添って地区ごとに送りとどけた。
中学校はちょうど文部省の学力テスト当日であったため、それが終わると同時に生徒は帰された。やはり職員が全部つきそった。

冠水した新殿の水田

この村にはなかったが、郡内には学校の帰途、川を渡っていて流された中学生がいた。
収穫したばかりの稲束を全部流されて収穫皆無に近かった農家もかなりあった。

昭和36年10月の集中豪雨は西日本一帯で猛威をふるい、大分市と別府市を結ぶ別大道路の仏崎では土砂崩れに遭った電車で31名が亡くなるなど各地で多くの災害を引き起こしたことでも知られています。
現在は、河床掘削や護岸工事も行われ当時とは比較にならないほど治水対策が進んでいますが、近年、全国各地で多発する風水害を目の当たりにすると、災害は決して「対岸の火事」でないと感じさせられます。
何十年もの間、人知れず保管されていた古びた白黒の写真は、今に生きる私たちに災害に対する備えを強く訴えかけているのかも知れません。

最初に氾濫が始まった千歳中学校うらの様子
最初に氾濫が始まった千歳中学校うらの様子
現在の千歳中学校うらの様子
現在の千歳中学校うらの様子
千歳中学校下流の水田の氾濫の様子
千歳中学校下流、専福橋付近の氾濫の様子
千歳中学校下流の現在の様子
現在の専福橋付近の様子
冠水したの壱丁田付近の水田から稲を集める人
冠水した壱丁田付近の水田
護岸が整備された現在の壱丁田付近の様子
護岸が整備された現在の壱丁田付近
雨が最も激しかった午後1時頃の平尾社のお仮場
雨が最も激しかった午後1時頃の平尾社のお仮場
現在の平尾社のお仮場の様子
現在の平尾社のお仮場
冠水した新殿の水田(えらのまえ橋付近)
冠水した新殿の水田(恵良之前橋付近)
現在のえらのまえ橋付近の様子
現在の恵良之前橋付近

お問い合わせ

千歳支所 
電話:0974-37-2111